TOPページ > 難波宮インフォメーション > 難波宮の概説:古墳時代の難波
伝応神陵古墳・伝仁徳陵古墳に代表される古墳が造られた古墳時代中頃(5世紀)に、ヤマト政権は難波の地に港を設け、国内外に権力を誇示するため大規模な倉庫群を建設した。また、この付近からは、朝鮮半島との交流を物語る韓式土器や陶質土器が見つかっている。海外との交流には、平野区の長原古墳群でみつかった船形埴輪のような船が用いられたと考えられている。
大坂城下町跡(中央区伏見町2丁目)
./.時期:5世紀〜6世紀頃./.大きさ:直径9cm、高さ9.3cm
胴体の片方に細長い把手がついた軟質の土器で、外面には羽子板状の叩き板でタタキ目をつけ、口の部分は内側に傾いて、蓋をのせるのに適したように作られている。このような特徴の土器は、朝鮮半島の古代国家である伽耶(カヤ)の陜川(ハプチョン)や新羅の慶州(キョンジュ)に似たものがあり、古墳時代の国際交流を物語る資料である。
長原遺跡高廻り1・2号墳(平野区長吉長原2丁目)./.時期:4世紀末葉〜5世紀前葉9.3cm
隣合った2基の古墳からそれぞれ1点出土した。手前が高廻り2号墳出土で、全長約129cmである(4世紀末葉)。向こう側が同1号墳出土で、全長約100cmである(5世紀前葉)。どちらも刳抜きの船底に舷側板を付加した準構造船を模しているが、形が異なる。モデルとなった船の構造の違いを表すと考えられる。この埴輪は、他の同古墳出土埴輪とともに、国の重要文化財に指定されている。
→高廻り1・2古墳出土の埴輪は「ギャラリー」コーナーにて詳しくご覧いただけます。