特別史跡大坂城跡発掘調査の現場を一般公開します - 大阪市文化財協会

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特別史跡大坂城跡発掘調査の現場を一般公開します

現説ロゴ

 大阪市教育委員会・大阪市経済戦略局と公益財団法人大阪市博物館協会大阪文化財研究所
は、平成25年7月から実施してきました特別史跡大坂城跡の発掘調査の成果を広く市民に紹介するために、 平成25年9月20日(金)より9月22日(日)までの3日間、発掘調査の現場を一般公開します。
 今回の調査では、昭和59年度に見つかった豊臣期大坂城の詰ノ丸石垣の上端を再発掘した
ほか、 徳川期大坂城において18世紀中頃〜後半に設置されたとみられる区画施設が新たに見つかりました。
 一般公開では、これらの遺構をご覧いただくとともに、出土遺物や写真パネルを展示します。
また、9月20日(金)の11時から15時までは、発掘担当者による解説を行います。

【 記 】

日 付 : 平成25年9月20日(金)〜9月22日(日) 終了いたしました。
時 間 : 10時〜16時 
     ※小雨決行(開催時間までに大阪府下に暴風または
      大雨警報が発令された場合は中止とします。)
内 容 : 上記の期間の時間、発掘調査の現場を自由にご覧いただけます。
    あわせて出土遺物・写真パネルを展示します。
    9月20日(金)11時〜15時の間は発掘担当者による解説および
    江戸時代の町人に扮したパフォーマーによる説明を行います。

参加費 : 無料
会 場 : 大坂城跡発掘現場
現説地図
    (大阪市中央区 大阪城公園内天守閣東南、金蔵の東側)
    ・地下鉄谷町線 天満橋駅から南東へ約700m
    ・地下鉄長堀鶴見緑地線
     大阪ビジネスパーク駅から南西へ約500m
    ・JR大阪環状線 大阪城公園駅から西へ約500m

調査の概要

調査地は特別史跡大坂城跡の本丸東部に位置します。豊臣期大坂城では、 この地域は天守や奥御殿など豊臣家の私的空間であった詰ノ丸南端、 およびそこから一段低くなった中ノ段にあたることが、昭和59年度に実施した調査で明らかになっています。 また、徳川期大坂城においては天守台の東南にあたり、18世紀中頃には現存する金蔵が建てられました。 今回の調査は、昭和59年度に見つかった豊臣期詰ノ丸の石垣を再発掘して公開するという 豊臣石垣公開プロジェクト※に先立ち、周辺の遺構の状況を把握するために実施しています。 豊臣期の石垣は上端部を再発掘しました。新たに見つかった区画施設は徳川期の遺構で、 南北に延びる石列とその東側に並列する石組の側溝です。金蔵の東側を囲うものであったと推測されます。 今回の発掘調査では、豊臣期大坂城詰ノ丸の石垣を再発掘したのみならず、 徳川期大坂城の構造を考える上で重要な資料を得ることができました。
豊臣石垣公開プロジェクト 大阪市では、大阪城の歴史を物語る新たな魅力を創出するため、大坂夏の陣から400年を機に、 豊臣秀吉が築いた初代大坂城の石垣を掘り起こし、公開する展示施設を計画しています。 また本プロジェクトを推進するために、平成25年4月より広く市民や企業の皆様から 「太閤なにわの夢募金」を募っています。

調査の成果

今回の調査地は、本丸東部の金蔵(重要文化財)の東側で、配水池の南に位置します(写真1)。
豊臣期では天守が位置した詰ノ丸外側の中ノ段、徳川期では金蔵の東側に当たる場所です(図1・2)。 以下では、時代の古い順に調査の概要を説明します。
【豊臣期】
豊臣期の大坂城は、天正11(1583)年に豊臣秀吉によって築造が開始されました。 しかし、大坂夏ノ陣の敗戦(1615年)後に行われた徳川氏による大坂城再築によって、完全に地中に埋められました。 この時に行われた盛土は、場所によっては7mもの厚さがあったことがこれまでの調査によりわかっています。 そのため、いまは地中にあり見ることのできない豊臣期の大坂城ですが、これまでに行われた数地点の発掘調査で、当時の遺構を検出しています。 そうした豊臣期大坂城に係わる発掘調査成果のうち、昭和59年度には絵図にみえる詰ノ丸の南東隅にあたる石垣を検出しています。 石垣は約6mもの高さがあることがわかっていますが、今回は調査地の北端でこの上面を再発掘しています(図3)。
【徳川期】
徳川期でもっとも重要な発見は、南北に延びる石列と、その東側に並行する石組の溝を検出できたことです(写真2)。 調査地の西側に現存する金蔵は18世紀中頃に建設されたことが文献史料などから知られます。 寛政5(1793)年に製作された『大坂城絵図』をみると、この金蔵の東側に区画施設とみられる線描きがあり、 今回検出した石列はこの区画施設に相当する遺構と考えられます(図2)。 石列を構成する石材には上面に柱を固定するためと思われる穴をもつものがあり、 石列の上には塀が設けられていたと推測されます。東側の石組溝は、この塀に伴う側溝でしょう。 なお、石組溝は幕末までに埋め立てられ、素掘りの溝に造り変えられていました。 また、この石列を築く前には、瓦を中心とした廃材を捨てるための大規模な瓦溜まり(ごみ捨て穴)群が掘られていました(写真3)。 瓦溜まりからは多量の瓦が出土し、その中にはほぼ完全な形の三つ葉葵文鬼瓦が含まれていました(写真4)。 そのほか、幕末の戊辰戦争の混乱の中で生じた火災による焼瓦層なども検出しました。徳川期大坂城の終焉を語る上で重要な資料です。
【明治時代以降】
明治25(1892)年、天守閣東側に配水地建設が計画されたことから、「元金蔵」(図2)が調査地に移されました。 この建物は昭和4(1929)年に高槻へ再度移築されましたが、この時地中に残された石組の雨落溝と、建物の地業を調査で確認しています。 また昭和6(1931)年の天守閣および第四師団司令部庁舎(のちの大阪市立博物館)建設に伴って、 調査地には車庫が建設されました。現場に残るコンクリート基礎は、この車庫のものです。

調査成果の意義

 今回の発掘調査では、豊臣期の石垣を再発掘したほか、徳川期の大坂城に関わる遺構を検出することができました。 このうち石列によって構成される区画施設は、@絵図と符号し、その具体的な構造を知ることができたこと、 A金蔵東側の土地利用状況を知ることができたこと、B徳川期大坂城の造り変えのあり方を示す資料であること、 といった観点から重要な遺構です。 今回の発掘調査でのこうした成果によって、特別史跡大坂城跡の構造と変遷をまた1つ明らかにすることができました。

図1
図1 豊臣期大坂城本丸復元図と今回の調査地

図2
図2 徳川期大坂城本丸と今回の調査地
上図は『大坂城絵図』(寛政5(1793)年、大阪城天守閣蔵)

写真1
写真1 調査地遠景(南東から)

写真2
写真2 徳川期の石列および石組溝(北から)

図3
図3 調査区全体図

写真3
写真3 徳川期の瓦溜まり群(北東から)

写真4
写真4 瓦溜まりから出土した三つ葉葵文鬼瓦(天地57cm)

【 問合せ先 】

    (公財)大阪市博物館協会大阪文化財研究所
    大坂城跡発掘現場事務所 (TEL:090-2386-7682)

【 主 催 】

    大阪市教育委員会・大阪市経済戦略局・大阪文化財研究所

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