難波宮跡西南部で新たに宮殿の一部が見つかりました

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難波宮跡西南部で新たに宮殿の一部が見つかりました

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大阪市教育委員会と(公財)大阪市博物館協会大阪文化財研究所は、 平成24 年8月中旬から、難波宮跡西南部での発掘調査を実施してきました。 その結果、難波宮朝堂院西方にあった宮殿の一部と考えられる建物や、 敷地を区画する塀などが確認されました。これまで推定されていた宮殿の西限よりもさらに西側にあることから、 宮殿の範囲に再考を迫る重要な成果と考えられます。
そこで、こうした成果を広く市民に公開するために、 平成24 年12 月1 日(土)13 時30 分より、発掘現場の現地説明会を開催します。

【 記 】

   日 付 : 平成24 年12 月1 日(土) 終了いたしました。
   時 間 : 13:30〜15:30 
        ※小雨決行(開催時間までに大阪府下に暴風または
         大雨警報が発令された場合は中止とします。)
   参加費 : 無料
   会 場 : 大阪市中央区法円坂2 丁目
       (国立病院機構大阪医療センター敷地内)

        地図情報サイト「マップナビおおさか」へ移動します
       ・地下鉄中央線・谷町線 谷町四丁目駅下車 10 号出口徒歩5 分
        ※東門(上町筋沿い)よりご入場ください。
         車での来場はご遠慮ください。

難波宮跡とは

難波宮跡は中央区法円坂を中心に広がる飛鳥〜奈良時代の宮殿跡です(図1)。 昭和29 年(1954)から始まった発掘調査によって、中軸線を共有して重なったかたちで、 2 時期の大規模な宮殿が存在したことが明らかにされています。
古い方の宮殿を前期難波宮と呼び、造営時の整地層に含まれる土器の年代などから、 7 世紀中頃のものと考えられています。皇極4 年(645)に蘇我本宗家が滅亡した「乙巳の変」の後、
孝徳天皇が擁立され、難波への遷都が行われたのを契機に造営された「難波長柄豊碕宮」と推定されています。 広範囲に認められる火災の痕跡は、天武天皇の朱鳥元年(686)に宮殿が全焼したという『日本書紀』の記載と一致します。
一方、新しい方の後期難波宮は、大極殿などの主要建物に使用された瓦の年代から、 奈良時代の神亀3 年(726)に聖武天皇の命により造営が始まった宮殿と考えられています。 近年の宮殿東方における調査では、これまで知られていなかった基壇をもつ建物の存在などがわかってきました。

調査の概要

今回の発掘調査は、 難波宮朝堂院の西方に当たる国立病院機構大阪医療センター敷地西南部の約1,900 uを対象に実施しています(図2)。 このうち西端の調査区において、難波宮期の建物跡4 棟(SB01〜04)、東西塀跡(SA01)および南北塀跡(SA02)が見つかりました(図3、写真1・2)。
東西塀跡(SA01)は長さ約41mを確認し、それ以上の長さがあったと推定されますが、 東端は南東から延びてくる谷(図2・3)の手前で終わり、おそらくは南へ曲がって、 役所の施設を区画するものであったと推定されます。また、東西塀跡(SA01)のうち西側5 個分の柱穴は、 東側の柱穴に比べて柱が太く、また、柱の間隔が狭いという特徴があります。 この部分には門のような構造の建物があった可能性が考えられます。
東西塀跡(SA01)の南には南北塀跡(SA02)を挟んで西に小型建物跡(SB03)、東に桁行6 間の東西棟建物跡(SB04)があります。 小型建物跡(SB03)は南北塀跡(SA02)に近く、他の柱穴に壊されていることから、 塀とは同時期でない可能性があります。さらに、東西塀跡(SA01)の北には建物跡(SB01・02)が南北に並んで見つかっており、 建物跡(SB02)は柱穴の配置から高床式の倉庫であったと推定されます。
これらの時期は、柱穴から出土した遺物に奈良時代のものがないこと、 塀の柱穴の形状が前期難波宮内裏西方官衙の塀に類似していることや、 塀で区切られた空間に規則的に建物が配置されている点が前期難波宮東方官衙に類似しているといった理由から、 前期難波宮の時期と推定されます。また、東端の谷を埋める厚い整地層からは7 世紀中葉以前の多数の土器や、 人形や斎串などの木製祭祀具や馬牛と思われる獣骨などが出土しています。 この付近を前期難波宮の役所の建設地として利用するために埋め立てて、整地した可能性が高いと考えられます。

今回の成果の重要性

前期難波宮は、内裏西方に位置する大阪歴史博物館・ NHK大阪放送局の敷地西側で検出された南北塀跡(図1・SA303)が宮殿の西限と考えられていました。 今回の調査地点は南北塀跡(SA303)の南延長線から西に約100mの位置に当たり、 大阪医療センター西部から銅座公園にかけての台地高所にも難波宮の役所が存在したことになります。
大阪医療センター構内では、これまでにも20 次以上の調査を行ってきましたが、 難波宮西南部における宮殿構造の実態は明らかではありませんでした。
今回の建物跡や塀跡が前期難波宮のものとすれば、宮殿の範囲がさらに西へ拡がっていた可能性が考えられます。 もうひとつの解釈は、宮殿の外側にも塀で囲まれた役所が設けられていた、という考えです。 今回得られた成果は、前期難波宮の宮殿構造を推定し、古代国家が形を整えていく過程をうかがう上での重要な手がかりとなります

写真1
写真1 塀跡(SA01)と建物跡(SB04) 東から)

写真2
写真2 建物跡(SB01・02) 西から

図1

図2

図3

【 問合せ先 】

(公財)大阪市博物館協会大阪文化財研究所 難波宮調査事務所
担当:高橋・京嶋(TEL:06−6943−6836)

当日問合せ:発掘調査現場事務所 TEL:090-2386-7682

【 主 催 】

        大阪市教育委員会・大阪文化財研究所

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